.

シルクロードの歴史

紀元前138年、前漢時代の探検家張騫が武帝の命令を受けて、西域の大月氏という国に向かって長安より出発したとともに、シルクロードの歴史は正式に開幕しました。張騫たちの先駆者の努力で、シルクロードは中国古代文明が西方へ伝わる重要なルートになり、中国と西方の経済文化交流を繋いだ掛け橋になりました。

普通シルクロードと言えば、張騫が切り開いた中央アジアの乾燥地帯を抜けたオアシス路を指します。東の長安(今の西安)から旅立ち、西のローマにたどり着くのです。このシルクロードには南北の2本の支線があります。南の支線は敦煌から長城の陽関を出て、西へと崑崙山麓を越え大月氏(今の新疆とアフガニスタン周辺)、安息(今のイラン)、条氏(今のアラブ半島)を経由して、ローマ帝国にたどり着きます。北の支線は敦煌から長城の玉門関を出て、天山南部に沿って大宛、康居(今の旧ソ連、中部アジアに当たる)を経由して、南西へ進み南の支線と合流するのです。このシルクロードは「陸上シルクロード」として知られています。

大月氏はかつては単に「月氏」と呼ばれ、匈奴と争っていましたが冒頓単于に攻められて大敗し、冒シルクロードの歴史頓の子の老上単于の軍に敗れて王が殺され、老上はその王の頭蓋骨をくりぬいて杯にしたと言います。その後、月氏の一部は北へと逃れ、これが中国では大月氏とよばれるようになります。

漢はこのことから大月氏は匈奴のことを恨んでいるに違いないと考え、匈奴の挟撃作戦を狙って張騫を筆頭に100人余りの使節団を送りましたが、漢の勢力圏である隴西(今の甘粛省)から出た直後に匈奴に捕らえられました。匈奴の軍臣単于は張騫の目的が大月氏への使者であると知ると「月氏は我々の北にいるのだ。どうして漢がそこへ使者を送れるだろうか。もし吾が漢の南の越へ使者を出したいと思って、漢はそれを許すか?」と言い、張騫をその後十余年間に渡って拘留しました。匈奴は張騫に妻を与え、その間に子供も出来ましたが、張騫は漢の使者の証である符節を手放しませんでした。

大月氏は匈奴に追われて北に逃げた後に、烏孫に追われて更に西へと逃げていました。張騫は康居へと立ち寄った後についに大月氏の町へとたどり着きました。

張騫の目的は月氏の王に漢との同盟を説くのでしたが、月氏王はこれを受け入れなかったのです。何故なら月氏が逃げてきたこの地は物産が豊かで、周りにこれと言った強敵もおらず、月氏は大夏(バクトリアであるという説とトハラ人の国であると言う説がある)を服属させ、中継貿易で大いに栄えており、匈奴への復讐心はもはや過去の物となっていたからです。

失意の張騫は帰りの道筋に崑崙山脈を伝って行き、チベット系民族である羌族の支配地を通ることを選びましたが、またしても匈奴に囚われることになりました。しかし1年余りして軍臣単于が死去し、それに伴い匈奴が内部対立を起こした隙を突いて脱出、紀元前126年に遂に漢へと帰還しました。この際、出発の時共に出発した100人余りいた随行員がこの時には2人になっていたといいます。

同盟こそならなかったものの張騫が持ち帰った西域の知識は極めて貴重なものであり、それまで漢にとって全くと言って良いほど状況が解らなかった西域が、これ以降は漢の対匈奴戦略の視野に入ってくることになるのです。この功績により太中大夫とされました。

その後、紀元前123年、武帝は大将軍衛青率いる匈奴への遠征軍を出発させました。結局長い戦争を経て、匈奴を破って、西域諸国との道に一番大きな障害を取り除きました。西域諸国は漢へ交易に訪れるようになり、後世シルクロードだといわれるこの貿易の道がこれで開通されました。